をかしの庭

なにげない日常の中にも、心ときめく現象や出会いがあります。 遠くに出かけずとも、内面に大きく語りかける身近な映像、そんな写真がお届けできれば良いのですが…。

古墳発掘説明会

さる8月3日に堺市の居住区内で長山古墳発掘説明会があった。
堺市には百舌鳥古墳群という大規模古墳の集積地帯が存在するが、この長山古墳は
かつては存在したが、現在は失われてしまった古墳のひとつです。
市営住宅の建設にともない協和町の説明会現場は多くの市民や考古学ファンに説明
すべく位置表示板や解説員などが配置されていました。 暑いので早い時間帯に行く
つもりでしたが、結局混雑を避け、午後になって仁徳陵外周路、大仙公園、大仙緑道
の緑陰をつないで塩穴通りに出た後北上して、徒歩で現地に向かいました。

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前方部葺き石列前で説明を聞く観覧者たち。 中央LAと背に書かれた黒いTシャツの
方の左足元に車輪、出土の文字が書いた説明板が見える。(車輪石出土場所)

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堺市が発掘説明会後に作成したPDF内の現地見取り図(転載)です
上の写真の場所はC地区葺石の周濠側ということになります。 公開されたのはA地区
及びC地区で他に発掘成果品の展示台とその説明員がおりました。 点線は古墳復元線

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こちらの図も同じく転載の上、場所等を加筆したものです。 百舌鳥古墳群配置図
これまでもっとも海岸寄りに存在すると考えられていた古墳群中草創期の乳岡古墳よりも
更に海に近くまた海岸線と並行して存在しており、乳岡古墳同様草創期古墳で仁徳稜を
含む百舌鳥三陵と並んで主軸を東に傾けた南北配置古墳のグループに属するのが見える。
この主軸の議論は単に築造時の水路都合によるものと考えることもある(古市古墳群で
は方向が一定していない、他の場所でも特定の向きは存在しない等)が百舌鳥古墳群内に
おいてはこの向きが明らかに2グループに分けられる。
百舌鳥古墳群と古市古墳群は交互に大王を輩出してきたが、百舌鳥古墳群の築造初期~
中期に分類されるグループは主軸を南北方向に、それ以後のグループは東西方向に
その主軸を設定しているように見える。
古墳がどのようにして巨大化しなぜ主軸が変化したのかを見ていくと、現地で説明され
ほぼ理解されている、海岸にやってきた船への威容誇示の観点から次第に台地上に巨大な
古墳が造営され主軸が海岸線と並行しているのも理解できる。
では主軸を東西に向けた古墳はどうか? 前方部が朝鮮半島方向を向いていることから
何か渡来系の氏族と関わりがあるのではといった疑問がわいてくる。理由はどうか知り得
ないがある時期からは威容誇示の必要性が薄れたのは確かだろう。
※ 草創期古墳というのはあくまで百舌鳥古墳群内においてのことです。

sharin
こちらの写真も転載です。車輪石は貝環をルーツとした装飾品とされる。
その元となったオオツタノハという貝の貝環が実際に出土しているのは愛知県より東北に
かけての東日本で西日本での出土例はない。このことが何を意味しているのかというと、
東日本の文化圏でその希少性から権威の象徴とされた貝環の形象性と大陸渡来の壁・玉の
思想が融合して車輪石になったのでは?と思うがさてどうなんでしょう。
この車輪石の材質は緑色凝灰岩で壁のイミテーションと考えることも可能でしょうか。
他に円筒埴輪や蓋形埴輪の破片などが出土していますが、津堂城山古墳で出土したような
水鳥形埴輪の出土はなかったようです。実は具体的に水鳥形埴輪の出土はなかったか訊ね
ればよかったのですが形象埴輪の出土はなかったかと説明員に訊いたので、人物形埴輪等
の出現はもっと後期になると返答されてしまいました。
また通例石棺付近で確認される車輪石が葺石周辺から見つかったというのは大規模に崩壊
があったことを示すのではないかと思う。

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昨年2012年12月1・2日に行われたニサンザイ古墳発掘現地説明会
これが原因でオシドリがいなくなったので、記事としてとりあげなかったが現地で目に
した資料にハッとするものが写っていました。

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墳丘の造りだし部分観覧のため濠に設けられた通路

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造りだし部分の発掘状況説明板

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現在は樹木や土砂・落ち葉に隠れて見えない墳丘側面の様子

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築造当時の墳丘裾部分の発掘確認溝、これにより当時は今より大きな墳丘規模と確認

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航空機からのレーザー測量で作成された百舌鳥古墳群の見取り図
仁徳陵の墳丘が前方部及び後円部で著しく崩落している。 このことはニュースで
知っていたが、応神陵でも前方部の崩落が見られる。
地震によって崩落した可能性は高いが、当時大陸から渡来した土木技術を駆使しても
仁徳・応神陵の築造は限界レベルにあり、そのことは築造当時から認識されていて、
築造費用・日数の割にリスクの大きい巨大古墳造営は衰退の道をたどったのでは?
中学時代に校庭から古墳時代の土器が普通に出て、その頃から古墳については深く
興味をもっており、上田正昭さんの著作や最近亡くなられた森浩一さんの著作などを
よく読みました。

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古墳のカモ第3陣と御廟山古墳発掘現地見学会

朝夕の冷え込みがグッと厳しくなり、山間部の初雪やハゼ紅葉は
例年に比べて、1ヶ月ほども早いのではないでしょうか。
世界遺産登録に向けた百舌鳥・古市古墳群の調査は同時期に
ほぼ、一斉に実施されたため、カモの挙動・滞在数に大きく影響。
例年順調に増加するオシドリの数が激減、トモエガモにも響く。

【仁徳陵内濠】
仁徳陵
23日の夕方近く、内濠北西端の水面にカモが多いので、スコープ
を覗いてみると、トモエガモ♂1羽、ヨシガモ10羽程度、ヒドリガモ
マガモ多数が確認できた。オカヨシガモも3羽いた。
【仁徳陵外濠】
カルガモが正面付近に多数、樋の谷水路近くにはマガモも多い。

【履中陵】
ミコアイサ
黄葉の下でくつろぐミコアイサの一群、手前3羽はマガモのオス。
草刈りが実施され、ようやく濠の視界は確保できるようになったが、
つくり出し部分の草刈りが行われた影響でオシドリが滞在しない。
通過のみとなったため、トモエガモもおそらく今期滞在は絶望的。
ミコアイサは例年の飛来パターンと異なり、周辺部へのメスの飛来
がないままに、エクリプスが1羽飛来。24日には前線の通過に先行
して群れが飛来、今期初めての10羽越え、14羽。♂10、♀4。
マガモは例年の御廟山古墳滞在組が合流しているのか、数が多い。

【いたすけ古墳】
カルガモ
いつもはコガモなので、今回はカルガモ画像。
全体としてはコガモのエクリプスが随分抜けたこと以外変化なし

【御廟山古墳】
調査箇所拡大、大規模調査のため水はほぼ抜かれ、アヒル以外はほぼ姿なし。
<発掘調査現地見学会>
現地見学会前の説明
後方のテントで整理券を配布され、見学のグループ分けが実施される。
整理券には集合時間が記載され、午前9時から15分間隔、200名で案内される
事前説明会で説明を受ける。上空を飛ぶ読売ヘリのせいでほとんど聞き取れず。
以上、大仙公園催し広場。

墳丘仮設橋
かつて仲睦まじい1組のオシドリが毎年見られた場所に向かって見学用仮設橋が
架けられ、墳丘外周を歩けるように仮設遊歩道が設置されていた。工事用鉄パイプ
を利用した一時的なものだが、多人数に対応するべくしっかり架けられていた。

円筒埴輪
いいいよ墳丘つくり出し部分の発掘現場。
画像中央には円筒埴輪列(植木鉢が並んでいるようですが・・・)、右下には転落した葺き石多数。
家形の形象埴輪の破片も見えました。

出口用橋
後円部出口の仮設橋。楠の大木がそびえる。

報道カメラマン
出口仮設橋脇で撮影済み画像を自社にモバイル端末で送信する報道カメラマン。
デジタル一眼+モバイル端末の組合せは今や当たり前だが、自身は2000年より使用。

御廟山古墳全景と見学通路
この画像から見て分かるだろうが、他の古墳に見られる紅葉が見られない。
調査は護岸工事に先立つとの説明だが、墳丘が濠の水によって浸食された事実は
10数年間見て一切感じなかった。むしろ仁徳陵の外濠と中濠の堤の崩落や倒木が
ずっと目立つ。見栄えが悪く、水鳥の生息に多大な影響を及ぼす護岸工事の必要性
は一体何を根拠にしたものなのだろうか?これは前方部南側からの眺めであるが、
一昨年まではこの正面にタヌキもオシドリもいた。彼らはどこへいったのだろう?
近代の改修工事の方がずっとずさんで、古代の技術がとても優れていることをこれら
古墳の現状は物語っていると思う。伐採された巨木の枝葉や木々は容易に戻らない。
あと3画像続きます。

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